みはら歴史と観光の会
                               

会報「わが町三原」10月号 第235輯

<表紙の写真より>
萩城天守閣 … 萩城跡の説明板より
〜明治初期 萩の小野為八の撮影といわれている 〜

萩城は、関ヶ原の役に敗れた毛利輝元が、防長二州・36万石の居城として、慶長9年(1604)起工、慶長13年(1608)に完工した桃山初期の形式を持つ城。 明治7年(1874)解体まで、270年間、毛利氏13代にわたり萩城の象徴として威容を誇っていた。

<目次>
歳時記 /福島家の統治が続い     ていたら
    須波ハイツ 正田 公佑
☆「三原(旧)一周膝栗毛」を   終えて(第六コース)
     本町  福岡 幸司
☆梨羽氏について(完結編)  中之町 山根 光博
☆萩城跡と周辺巡り
    宮沖 柏原 栄三
☆会よりの便り 事務局

<歳時記>
福島家の統治が続いていたら  須波ハイツ  正田 公佑
 福島正則は元和5年(1619)の10月初め江戸屋敷より信州高井野へ退去した。
 福島家による備後、安芸の統治は17世紀初頭わずか19年で終えんを迎 えたので、同家による三原地方での事跡は西町の町割り等を除いて数少ない。
しかし、和田、須波境の犬吼から糸崎の六本松を結ぶ海中に堤防を築き、当時は舟木、本郷の当たりに河口のあった沼田川の流れを南側の峠を掘削し幸崎、忠海方面の海と結び、その間の広大な三原湾全体を干拓するという気宇壮大な事業がすでに緒についていた事は歴史愛好者にはつとに知られているところである。

 三原の干拓地で最も新しいものは和田沖新開であるが、後年これが沖合いに拡張されている。この工事を請け負ったF建設の社長の話によると、作業に当った潜水夫が福島新開の堤防が築かれたであろう海底で墓石を含んだ大量の岩石の存在を報告したとのこと。これに関連して、想像の域を出ないが「三原昔話」に記載されている鬼源兵衛が福島公の命により加羅加波神社の楠の神木を切り、これで作った船が犬吼の鼻にかかる前に沈んだとの話も堤 防工事の一環として湾閉塞のために人為的に行った可能性すら考えらる。 福島新開の完成は三原のその後の姿をどのように変えたであろうか。
 山陽鉄道が敷設した鉄道は、明治24年尾道、明治25年糸崎まで開通している。これより西、広島までの延長が計画されたが、ルートの選定時種々反対のあった中で最終的に旧三原城を貫通することが決まり、明治27年現在の姿で開通した。 歴史を語る上で「たら」はなじまないが、もし福島家の統治が続き福島新開が完成していたら、少なくとも鉄道は三原城を破壊するという難工事をさ けて現在の国道2号線あたりに敷設され三原城は観光都市三原のシンボルとして石垣だけではあるがその威容を誇っていたのではあるまいか。
編集後記★7月下旬に、梅雨が上がった途端に猛暑となり、夕立という単語を忘れたかのような連日のカンカン照り。朝晩多少涼しくなったが、日中の気温は相変わらず例年を大きくうわまる高さ★それでも暦は確実に進み、秋の行事予定が目白押し★龍馬ブームのお陰か、萩城跡行きバス研修旅行は好評で、早々と定員を越えた★山根光博氏による、三原城から萩城に移された梨羽氏に関する解説も、丁度今月で完結した★今後、三原市主催の浮き城祭りや市郷連の主催行事と楽しみが続く。(健)

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