みはら歴史と観光の会
                               

会報「わが町三原」平成26年4月号

  〔後山平家八幡宮の両部鳥居〕

      

平成26年3月02日に 新調なった後山平家八幡宮の鳥居(4本の稚児柱付き)


昭和45年秋、前年の台風で倒れた鳥居を部分修復した時以来の工事で、今回は、全体が栗の木製から檜製に生まれ変わった。


     H26.3.14撮影 鈴木健次(宮浦)

  < 目 次 >
表紙:表題:新調された両部鳥居 写真:後山平家八幡宮の両部鳥居

学制改革(旧市の新制中学校の設立)      糸崎 大谷和弘
安芸草井氏の出自と系譜(3)
       大和町 和氣泰臣
楢崎氏と三原(4)糸崎 大谷和弘
会よりの便り      事務局

 < 行 事 予 定 >
1.春のハイキング
 4月03日までの申し込み者には
保険を掛けます。
(1)開催日時 4月06日(日)
  10時〜16時30分頃 少雨決行
(2)コース 沼田東町方面
 (詳細コースは3月号を参照願
  います)
(3)集合時刻と場所
  10時05分 
  本市バス停(沼田東町)
 <バス利用者用参考>
 三原駅発9:50→本市着10:02  本市発16:19→三原駅着16:31
(4)服装
 兜山古墳と日光坊からの峠越え で高低差10m程度の坂道あり。 軽装で滑らない靴を着用願いま
 す。
(5)持参品
 昼食弁当,飲み物,雨具,保険証等
(6)参加費
 500円(資料と保険代,交通費は
 各自負担)
(7)申込み
 下記宛 E-mail、葉書またはFAX
 にて、
 住所・氏名・電話番号を明記の
 上申し込み願います。
 電話は不可とします。
 〒723-0051 三原市宮浦6-9-32 鈴木健次
 E-mail; kechigo@dream.jp
 FAX 0848-63-9932
  < 歳 時 記 >
     学制改革
 (旧市の新制中学校の設立)
   糸崎 大谷和弘
 戦後70年近くなると戦争体験も、連合国軍による占領の記憶も大分薄らいできた。占領政策の主要なものに学制改革があり、民主教育に180度の変革を迫られた教育現場は大混乱を経験した。学制改革の第一は六三制による新制中学校を設立し義務教育を9年に延長した。『三原市史』を参考に、その経緯を整理し、早期実施を強いられた当時を回顧したい。
 昭和22(1947)年4月の設立状況を述べる。第一中学校を糸崎小学校内に設け、木原小学校内に分教場を設けた。第二中学校を三原小学校内に設け、中之町小学校内に中之町分教場を設け、専売局内に城町分教場を設けた。第三中学校を田野浦小学校内に設け、西小学校内に西分教場を、須波小学校内
に須波分教場を設けた。第一中学校は翌年独立校舎を設け、木原分教場を統合した。第三中学校は割合早い時期に校地を宮沖町に移し、昭和23年に旧海軍宿舎の払い下げを受け校舎を建設した。ここで第二中学校と第三中学校の3年生と2年生の半分が学習した。西分教場は昭和23年にアートライト工場内の仮校舎に移っていたが本校舎が建設されると中之町分教場の生徒と共にこれに移った。須波小学校内の第三中学校須波分教場は昭和23年に第四中学校として独立し、三菱須波寮を仮校舎として移転した。昭和23年末に新たな土地に校舎を建設し、再び第三中学校須波分校となり、昭和28年に第四中学校として独立し、昭和55年に須波ハイツに移転した。
第二中学校は昭和24年に糸崎鉄道学校が廃校になった跡に移転したが、義務教育の中学校なのに学区外に通う全国でも珍しい存在となった。学区内への移転の努力が続けられた結果、54年経った平成15(2003)年にやっと中之町の旧三原工業高校跡地に新校舎を建築して移転した。当時の中学生は木壁で仕切った小学校の講堂で勉強し、占領軍の気に入らぬ箇所は墨で塗られた教科書を使用して大変な環境で頑張った。
< 行  事  報  告 >
2月23日 
 桜山植樹の手入れ,登山道の整備
2月27日 
 月報発送作業(村田,瀬畑,金森,
 越当,大原,松竹,長田他)
3月03日 
 3月度理事会(春ハイキング他)
3月18日 
 月報発送準備作業(金森,大原,
 松竹他)

  < 編 集 後 記 >
★去る3月14日、郷土史愛好者8人で、久し振りに後山平家谷を訪ねた★急な崖の縁にある平家塚五輪塔は、崖の浸食が進んで落下寸前の危機にあるが、花立てには青々とした樒が供えられていた★そこから更に坂道を登った所にある平家八幡宮には、何と真新しい鳥居が光って見えた★施工年月も寄贈者看板もないので、帰宅してから施工責任者後山の河野強氏に電話で伺った話によれば「10日程前に建立したばかりである。費用は共有林等の蓄えから捻出しているので寄贈者看板は作成しない。殆どの人が平地に移っているが、毎月定期的に会合を開いて行事計画を立てている。この鳥居もその会議で建て替えが決定された。それまでの鳥居は共有林に自生していた栗の木を使用していたが、栗の木が無くなったので、大工さんが調達した檜で新製した」とのこと★河野強氏の著書「平家谷後山」によれば、建久2(1191)年源平の合戦に敗れた平家一族が、この地に逃れ、谷を開墾して自給自足の隠遁生活を強いられた。幸い良水と豊富な山林に恵まれていたという。以来、一族の団結は固く、平成の現在にも引き継がれているとのことで、この眩しい鳥居はその象徴ではなかろうか。(健)

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