三原郷土史木曜会
                             

三原市の古刹大善寺(西町)・宗光寺(東町)訪問

6月13日梅雨期間中であるが晴れた暑い日、三原郷土史木曜会先生以下14名は「三原市の古刹「大善寺」(西町)・「宗光寺」(本町)訪問の現地学習のため、10時に大善寺の境内に集合しました。
お寺の住職の講話の先に、大善寺墓所の最上段にある「楢崎正員」墓所に赴き正員の墓石や楢崎家一族の墓石を参拝し見学しました。このあと墓所を下り、下部にある月渓院殿心譽栄讃珠光大禅尼の墓所で先生から月渓院の説明を聞きました。
本堂に入り和尚による三原郷土史木曜会のための「正覺廣大慈思供養」法要を執り行っていただき法要の後、「浄土宗大善寺略歴」資料により大善寺の略歴。浅野3代忠真の側室「月姫」が忠真の側室になった経緯、大善寺は月姫の祈願所として徳川幕府より将軍家菩提寺である増上寺の寺号を賜り増上山大善寺とされ三葉葵の使用が許される。月姫は正徳3年(1713)12月74歳にて示寂。大善寺境内西南にある特別墓地に葬られており、戒名「月渓院殿心譽栄讃珠光大法尼」である。
大善寺について「三原には過ぎたるもの三つある。三万石に相応しなくない規模の三原城。月渓院に関係する徳川将軍家の葵紋の大段幕。鈴木方衛という勝れた家臣がいる。ということについても触れられました。
その後県重文の「阿弥陀仏如来立像」の部屋に移り、立像の説明を聞き鑑賞しました。またこの部屋には小林和作による襖がき(襖8枚に描いてある)や絵画も鑑賞しました。

月渓院殿心譽栄讃珠光大法尼の墓
月渓院の墓は大きな宝篋印塔で大善寺墓所の西南の囲いの中に建っています。木製の表示塔正面には「月渓院殿之墓」横面には「四代城主忠義之母也」と案内してあり、別に「月渓院殿にまつわる伝承」と説明書きも建っています。
徳川三代将軍家光の落胤とされる月姫(月渓院)が三原浅野家三代の忠真に一目惚れし、忠真の側室として化粧料五千石と共に浅野家に受け入れられました。忠真には正室には子がなく月姫の産んだ子が四代城主忠義であります。浅野忠真は元禄七年(1694)に逝去、月姫は正徳三年(1713)74歳にて逝去したと案内表にありました。
大善寺文化財
県重文 「木造阿弥陀如来立像」、昭和42年5月8日指定。像高77.5僉寄木造り。作者の比定はできないが、慶派の作であると考えられている。
県史跡 「楢崎正員の墓および関係遺跡」、昭和17年6月9日指定。(大善寺には楢崎正員の墓がある)
楢崎正員は、元和6年(1620)三原西町のそろばん製造業(のち薬種業)に生まれ家業に専念したのち、延宝元年(1673)54歳のとき京都に赴き山崎闇齋の門に学び三原城主浅野忠長の知遇を得た。彼は晩年の10年間を須波に隠居し、この地の東風が強いのを見かね私財を持って波止を築き、開運の便を図った。
以上三原市教育委員会の説明板より抜粋。
宗光寺訪問
午後は、で住職の宗光寺の歴史・文家財全般についての説明と墓所や境内の文家財などについて先生から説明を聞きました。
住職からは、宗光寺は曹洞宗泰雲山 宗光寺と号し、前身は天正5年(1577)小早川隆景公が新高山城の中腹に実父母毛利元就夫妻の御年忌に当たり匡真寺を建立されたことに始まる。その後天正10年(1582)小早川隆景公が現在地に引寺されました。

宗光寺山門
山門脇に三原市教育委員会説明板がありますが、最近この説明板が新しいものに書きかえられています。この説明板の内容は。
重要文化財 宗光寺山門 一棟 承和28年11月14日指定 宗光寺山門は、四脚門(四足門)としては全国的に見ても最大級の規模を誇る。 梁組などに桃山風な重厚さを見せ、蟇又の彫刻も多彩かつ豪華である。 小早川隆景が築いた新高山城から移築したとされるが、規模・細部意匠などから、福島氏が現在地に新築した可能性が高い。
新しい説明板には四脚門の図面も挿入され、各部位の名称も書き込まれています。
宗光寺の文化財
々饅妬検―仝寺山門 昭和28年(1953)指定。(四足門、切妻造、本瓦葺、桁行6.05メートル、梁行4.85メートル)
∋埆妬検―仝寺七重塔(花崗岩、鎌倉時代、14世紀)昭和61年(1986)指定
市重文 紙本著色小早川隆景画像 平成22年(2010)指定
せ垰棒廖(‥臉鞠係の墓(宝篋印塔、高さ1.77メートル江戸時代)昭和36年(1961)指定
セ垰棒廖\野忠長公の墓(五輪塔、高さ3メートル、江戸時代)昭和36年(1961)指定
市重文 宗光寺文書 昭和55年(1981)指定
他に指定は受けてないもの多数あります。毛利元就公夫妻の位牌。小早川隆景公位牌。福島正之公の位牌。浅野忠長公夫妻位牌。十六羅漢図画一軸。赤穂義士画像など。
参考 宗光寺パンフレットより
徳川家康宿泊所一株院跡
文禄元年(1592)城主隆景は秀吉の五大老として隆景と共に実力を二分していた徳川家康が、約3万の軍勢を引き連れ朝鮮に向かう途中、城中などが一望でき、戦略上重要な地にある宗光寺を解放して宿舎にあてました。この隆景の歓迎に対して家康は、」城中より高いところに泊まるのは失礼にあたる」と、境内下にあった小早川16代繁平の菩提所、一株院に泊まったといわれています。
(三原の歴史と観光ガイドブックより)

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