三原郷土史木曜会
                             

三原郷土史木曜会・井香里会「吉備路現地学習」

1.日時 平成24年10月11日(木) 8時〜18時(バスによる)
2.参加者 先生含み13名
3.現地学習箇所
(1)備中高松城跡(2)吉備津彦神社(3)吉備津神社(4)造山塚古墳
(5)備中国分寺(6)こうもり塚古墳
行程は以上の順序で回りましたが「吉備津神社」から紹介します。また造山古墳・備中国分寺・こうもり塚古墳でも貴重な見聞をしましたが、紹介は省略いたします。
国宝吉備津神社の「比翼入母屋造および拝殿」の前で記念写真を撮る。比翼入母屋造の屋根は、5、6年前に檜皮葺が更新されており朱色がかった屋根と真っ白な亀腹の色彩が目に飛び込んできました。
そのあと、若い神官により神社の祭神は第7代孝霊天皇の皇子である「大吉備津彦命」であること。又桃太郎のルーツといわれる有名な鬼退治の伝承は大吉備津彦命が、百済からの渡来人「温羅」を退治すること、また神社の「鳴釜神事」つながっているお話を聞きました。次に国宝の屋根や拝殿内の紹介があり、本殿から続く360メートルの回廊を通って御竈殿に案内してもらい、温羅のうなり声といわれる釜うらないの場所を見学して境内から出ました。

吉備津彦神社
ここからは「吉備路観光ボランティアガイド協会」の池上宣雄さんに一貫して説明してもらいました。
主祭神 大吉備津彦命。相殿 吉備津彦命(その他省略)
吉備津彦神社は備前国総氏神で、「備前一宮」と呼ばれている。随神門に上がる石段の左右には大きさ日本一という高さ11.8メートルの石灯籠が左右に構えています。階段を上ると随神門、その右側には樹齢千年以上の杉のご神木が、昭和の火事で社殿側が焦げ現在延命治療中であると説明を受けました。
ご本殿は「三間社流造」。随神門、拝殿、渡り殿、ご本殿と一列配置であるが、随神門とご本殿を残し他は昭和5年(1930)12月失火により焼失し、現在の建物は昭和11年(1936)再建されたものでる。
ここでは回廊で食事をし、ガイドさんから「温羅伝説」を詳しく聞きました。
備中高松城跡(公園)
高速経由で9時30分高松城跡に到着。ここは、天正10年(1582)「高松城水攻め」という秀吉軍と毛利軍との日本歴史上大きな意味を持つ戦いがあった所で現在は公園化されています。
高松城跡のガイドさんは井上正美さんで、資料館などまだ開園前でしたが、早速高松城水攻めの時の羽柴秀吉陣と毛利方の陣地の配置を山を指しながら説明されました。
秀吉本陣は本丸北方向の龍王山に構え、高松城を3万の兵で取り囲むが攻めあぐみ黒田官兵衛の進言と云われる水攻め戦法をとった。この時小早川隆景などの毛利勢は本丸の南方に陣取っている。
次に資料館内で、水攻めの図「高松城水攻地理之図・古川古松の絵図」など当時の図、また洪水時の状況(1985年6月25日)を比較して説明をされ、水攻めの現実が浮かび上がってきました。
公園内では6月に花咲く「宗治蓮」の話、清水宗治首塚・歌碑・胴塚などを見学して高松城水攻築堤跡の「蛙ヶ鼻」に移動しました。
国史跡築堤跡では、堤防規模の説明がありました。「太閤記」「中国兵乱記」などの伝記に書かれている堤防の長さは蛙ヶ鼻から約2.7辧規模は高さが約7m、幅の底部が約24m、上部が約10m。工事期間は12日で、周辺の百姓にお金や米と引き換えに土を運ばせたというものである。とありますが、この周辺は低平地で大雨時には足守川から低い地に水が流れ込み秀吉の築いた堤防も300メートル位であったと推定されているそうです。
ここでは平成10年(1998)発掘調査が行われ、盛り土の最下層に杭列(くいれつ)土俵(つちだわら)などの痕跡が残された遺跡を説明を聞きながら見学しました。

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