三原郷土史木曜会
                             

三原郷土史木曜会 尾道、福山貝塚ほか・沼隈平家谷探訪

9月13日楪先生以下会員12名は尾道市高須町「大田貝塚」、福山市本郷町「昌源寺」、柳津町「馬取遺跡」及び沼隈町中山南「平家谷」の現地研修旅行を実施しました。最初研修した大田貝塚と馬取遺跡は共に松永湾を囲む貝塚で過去の学習で次の事を学んでいます。
大田貝塚の貝は、松永湾東岸の貝塚でみられるようなハイガイ・アサリ・ハマグリなど砂泥性二枚貝は、10パーセントにも満たない。このような貝類組成から、松永湾では、河川から流入する淡水は、潮流や波浪により東岸沿いに流されるため、西岸沿いでは、比較的塩分濃度が高い海況にあり、砂泥性の干潟が少なく、二枚貝の生息には適していなかったと考えられる。したがって西岸沿いでは、容易に手つかみできる巻貝類が集中していたといえよう。(楪先生の講義から)。
画像は「馬取遺跡」の貝塚に設けられた覆屋。

 
   

馬取遺跡史跡(県指定遺跡)
史跡指定昭和34年1月29日
遺跡は松永湾東岸に面した大地に営まれた縄文時代の貝塚を中心とした遺跡です。現在覆屋で保存されている東貝塚と、すでに堀取られた西貝塚、南の遺物包含層から構成されていました。
出土した縄文土器は、早期から晩期までおよび、石器(石鏃・石錘・石匙)、貝類(ハマグリ・ハイガイ)、獣骨(イノシシ・シカ)などが出土しています。
特に、縄文時代後期末の土器は「馬取式土器」として、瀬戸内海地域の標準土器とされています。また、包含層の上層からは、須恵器・土師器、製塩土器などが出土しています。(福山市教育委員会説明板)より
見学して
貝塚の堆積状態を覆屋を設けて見学できるようにしてある。見学通路から断面の貝殻を見ると5000年以上前と今の貝殻もまったく同じである。

昌源寺「古志清左衛門」の墓
備後の古志氏は、出雲国古志郷を本拠とした出雲古志氏の一族で、尼子氏と同じく近江佐々木氏の一門にあたる。
古志清左衛門は大場山城主12代・最後の城主で毛利がたについていたが、尼子氏に通じていると疑われ三原城中で殺される。三原の墓は糸崎町六本木に立派な五輪塔がある。
昌源寺の古志清左衛門の墓(本郷観光探勝案内、説明板より)
本郷城の、最後の城主、古志清左衛門豊長の墓である。豊長が豪勇無双で、度々の合戦に大きな手柄をたてたが、他の侍大将のねたみを受けて、三原で暗殺されたという。この墓は、その忠僕権平法師が建てたものであると、伝えられる。
大田貝塚(県指定遺跡)
史跡指定昭和24年8月12日指定面積約5000
大田貝塚は松永湾北西部の小扇状地にある縄文時代前期から後期(約6000〜3000前)にかけての大規模な貝塚で、昭和初年から5回にわたる発掘調査で明らかになった。
貝塚は混貝上層と有機砂層からなり、混貝土層からはハイガイ、テングニシ、カキ、ハマグリなどと共に中期、後期の土器を出土し、その下の有機砂層からは前期の土器、石器、骨、角、貝製品も出土している。貝層下には人骨が埋葬されており74体余りが確認されておる。
感想
遺跡は人家に囲まれた中に間口約50m×奥行き約100m位の空き地が残してある。入り口には「広島県史跡 大田貝塚」の立ての石碑が建っている。
楪先生も19648昭和349年に発掘調査に参加しておられ、その時も人体が発見されたと言われた。あとで見学する「馬取遺跡」とは貝の種類が異なり、大田貝塚の方は淡水系、馬取遺跡の方は海水系と聞きました。
平家谷通盛神社
(寝斑の由来
その昔、屋島の合戦後平家の武将主従が隠れ住んだ地で、平清盛の弟、教盛の長男で久安または仁平年間(1150年頃)生まれの平道盛や愛妾小宰相(こさいそう)の局等40数人が隠れて暮らしていた所で、関連のある地名が沢山残っている所。
見学か所
1)道盛神社 平道盛主従を祀る平家谷の守護神である。社伝によると建久3年(1192)創建で一本松からこの地に江戸時代に移転したという。神社は小宰相庵を挟んで108段の石段のうえの小高い丘の上に位置する。御神体は平道盛と妻小宰相の木像。
2)福泉坊 天台宗から現在は浄土真宗。住職の話では中山南には浄土真宗の寺が多く、16ヶ寺ある。寺の山門には立派な月に兎の蟇又がある。また、小宰相の墓もある。
3)赤幡神社 平家ゆかりの赤い錦の旗が祀ってあるという。
見学して
平家谷と呼んでいる地方は全国に33か所あると聞きました。三原にも平家の落人が移り住んだといわれる所が2か所ありますが、この地方は33か所には這入っていないそうです。
中山南の平家谷で暮らしておられる人は、平家谷をロマンととらえ、平通盛、小宰相等を谷の実在人物として誇りに思っておられました。

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