みはら歴史と観光の会
                               

    会報 「わが町三原」 平成24年2月号

福を呼ぶ豆まき

〔糸碕神社の豆まき〕

H23.2.06 糸碕神社宮司撮影

 <目次>
・岩崎弥太郎生家を訪ねて
       長谷 川上哲司
・春のハイキング
 「中世山城の探訪」のご案内 
       中之町 山根光博
・八幡藪事件の謎 (1)
       糸崎町 大谷和弘
・古浜の今昔(3)  
       中之町 山根光博

<歳時記>
  岩崎弥太郎生家を訪ねて
       長谷 川上哲司
 昨年、高知から30里ほど離れた太平洋に面した長宗我部氏の古い城下町安芸町に、岩崎弥太郎の生家を訪ねる機会が有った。初めての訪問である。
 肩をいからせ立派な髭を生やしている銅像の違和感と、小さな農家には不相応に見える玄関式台のある生家から、武士(地下浪人)としての強い誇りを感じた。
 岩崎家は下士で、祖父の代、郷士の株を売って地下浪人になり、農地が2町歩位あるとはいえ、その志からすれば厳しい生活を送っていた。下士が上昇する為には、儒学者か医師か僧侶しか道のない時代である。町医者の娘を母とし
た弥太郎は、儒学を地元安芸町、高知、江戸で学び、土佐を代表する儒学者岡本寧浦の跡継ぎにと要望されたこともある青年である。

 
 時代は幕末、吉田東洋、後藤象二郎の縁で長崎で貿易商を担い、明治になった時、34歳の弥太郎は、新政府の役人にしてくれるよう象二郎に頼むが、土佐近代化の金づるとして重宝される身にあった弥太郎には実現せず、実業の道に生きた。
 それにしても、三菱という日本を代表する組織の創始者となった弥太郎の、その志は何処からくるのであろうか。下士として虐げられてきた思いはあるにしても、その不屈の闘争心、上昇心、努力など、想像を超えるのである。
 福沢諭吉は、のち、その漢学の深さに驚き、以後慶応義塾の卒業生に三菱を勧めたという。
 明治18年、52歳で没するが、最後に、「隆景を手本にして息子の補佐を頼む」と弟弥之助に言う。以後、2代弥之助、3代久弥(弥太郎長男)4代小弥太(弥之助長男)で三菱財閥の形を作った。親に孝、弟妹妻子に情の、極めて家族思いの人であった。銅像の髭は、漢詩を良くした儒学者弥太郎の姿なのであろう。
 当時、日本全国、中小藩の下級武士に至るまで、論語(儒学)を基本にして、国を思う誇りが満ちていた江戸の時代の不思議さを思う。          (了)


 
<行事予定>
春のハイキング「中世山城の探訪」 参加者募集 !!
(1) 日 程  H24年4月8日(日)
(2) コース
 三原駅バス停7:40発→福泉寺→ 真良山城→稲村山城跡→善根寺 →鶴山城跡→三原駅16:50頃
(3) 参加費 300円(バス代別)
(4) 持参品
 昼食、飲み物、杖、バス運賃等
(5) 申し込み レキカン事務局宛
 葉書またはファックスにて、氏名、  住所、電話番号を明記の上
(6) 締め切り 4月3日(火)

<編集後記>
★節分は、季節を分けることを意味し、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、新年の始まりの立春の節分が最も重要視され、現在に残ったという★豆まきは、季節の変わり目に邪気(鬼)が入りやすいとされ、それを払う儀式である。近年の神社では、鬼を意味するともいわれる豆だけでなく、色々な菓子類も一緒に撒いている★イワシの頭をヒイラギに刺して戸口に飾るのは、焼いたイワシの頭の悪臭とヒイラギの棘で、鬼を追い払う為★更に、今年の恵方の北北西に向かって恵方巻き(福を巻き込む)を丸かじり(包丁で縁を切らない)すると、縁起がいいという★今年は、4年に一度のオリンピックの年。大きな災害に見舞われることなく、平穏で明るい一年であって欲しいものである。(健)

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